HomeArchive研究コラム > 合唱対話篇−第1回・第2回

Vol.1 合唱対話篇

第1回 「詩との間合いをつめてみよう」


団員D:
うーん。

KIN:
なにをうんうん唸っているの?

団員D:
信長貴富先生作曲の「未来へ」の詞なんだけど、いまいち分からない。

KIN:
谷川俊太郎先生の詩だよね。どんな内容なの?

団員D:
全五段落中、最初の二つの段落は、スミレや道を見て、過去のことを考えている。例えば、「この形この香りは計り知れぬ過去から来た」という具合に。次に、三段落目では、太陽を見て、「この太陽がいつか冷え切るまでに」と、未来のことを考えている。四段落目では、「限りないもの」について、限られた存在である「人」が考えるというような形。さらに、最終段落では、「未だ来ないものを、・・人は創っていく」、そして、「…何故ならきみが未来だから」という言葉で終わるという内容。

KIN:
いい詩だね。

団員D:
使われている言葉はどれも難しいということはないのだけど、「何故ならきみが未来だから」という結びの意味がいまいちストンと落ちない。「きみ」と「未来」という言葉は主語・述語として結びつくのか?と。

KIN:
ふむふむ。さっき、団員Dがまとめていたように、この詩は今自分の目の前にあるものを見ながら過去・未来を考えているという表現になっているんだね。過去・現在・未来ということで時間についてテーマにしているという風な視点でみると、何か見えてくるかも知れないね。

団員D:
テーマは時間についてか。

KIN:
時間について考えた人は沢山いるけど、興味深いものに、「始めに、神が天地を創造された」という旧約聖書の創世記の文章の「始めに」に着目して時間を考えていった人がいる。
その人の本には、「被造物の運動の様々な変化がなければ、どんな時間も存在しない(考えることができない)のだから、神が天地を創造するまでは、時間はなかったのだ」ということが書いてある。

団員D:
うーん。確かに言われてみれば、人は、A点からB点までの物の移動を見ることで、初めて時間の経過を感じることができるのかも。

KIN:
そうなると、天地(=物)の創造イコール時間の創造ということになるね。

団員D:
そこまではいいとして、では、結局時間とは何だということになるの。

KIN:
その本には、「過去はもはや存在しない。でもその心象は、私の記憶の内にある。次に、私たちが予想することは、未来のことだから存在しない。しかし、予期は現在の心の作用である。だから、それらは現在のものだ」という風に述べられている。だから、時間とは、現在の精神の延長であるというんだね。

団員D:
この詩は、現在の精神である自分が、色々な物を眺めながら過去・現在・未来と精神を延長させているということなのか。

KIN:
一つの見方として、そういう風に読むことも出来きるとは思う。もちろん、この詩は時間の観点だけではなくて、空間という観点も重要だと思うけど。

団員D:
空間という点から「見ている対象」に着目すると、第一段落は道端のスミレ、第二段落は遠い地平、第三段落は太陽・・。どんどん対象との距離が遠くなっている!

KIN:
そのとおりだね。

団員D:
そして、第四段落で見ているものは「限りないもの」だから、距離がよくわからなくなっている。

KIN:
第四段落でよく分からなくなるのは、時間という観点でみても一緒だね。

団員D:
第四段落は、「人は限りないものを知ることはできない」という表現が使われているから、過去でも未来でもなく「永遠」を念頭にしているのか。ふーむ。

KIN:
最終段落の「未だ来ないものを、人は創っていく」、「…何故ならきみが未来だから」という言葉は、ストンと落ちたかな?

団員D:
まだ、ストンという感じはしないけど、感覚的にはイメージできそうなので、フォルテで歌いつつも、心の中で首を傾げるということはなさそう。

KIN:
詩人が何を表現したのか、それを作曲者が詩からどのように摂取して曲にしたのかという点について、自分なりのイメージや仮説を持っていると、思いを込めて歌いやすくなるし、演奏が楽しくなるね。

団員D:
練習にも自分なりの問題意識をもって臨めそう。

KIN:
それが一番だね。

参考文献

 ・関根正雄訳 『旧約聖書 創世記』岩波文庫
 ・聖アウグスティヌス 服部栄次郎訳 『告白(下)』岩波文庫
 ・佐藤康邦 三嶋輝夫編著 『西洋哲学の誕生』放送大学教育振興会
 ・プラトン 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波文庫

by kin 2011/11/11 02:40 

第2回 「Volga ―歴史ってときに逆流するの?」


kin:
草野心平さんの詩は、蛙をモチーフにしたものとか、風景をモチーフにしたものとか、色々あるけど、 そういうものを通して宇宙を表現しようとしているというか、そういうものの中に宇宙を見ているという印象があるね。

団員:
そうですね。ところで前から気になっていたんですけど、「Volga」の「歴史はときに逆流し」っていう詞、あれって何なんですか? 歴史って逆流するんですか?

kin:
・・・。そっそれは鋭い質問だね。誰もが一度は思うことだね(汗)。


ここで話されているVolgaは、男声合唱組曲「五つのラメント―草野心平の詩による―」の終曲です。 ロシアのあの大河 、Volgaを描いたもので、伝説の合唱曲です。 2010年に「所沢市合唱祭でVolgaをうたう会」により、見事に演奏され話題になりました。

詩人が上空からVolgaを眺め、例えば、

「Volga うねうねの帯。」

「曽ては流氷に血がまじり。」

「今日もまたそのコマギレであることの歴史は流れ。流れさり。」

「流れ去り消え去った。もろもろのもの。」

「歴史は時には逆流し。(生々しくよみがえるもの。)」

「しかし悠々の母なる動脈。」          (以上、抜粋引用)


という具合に、Volga、人間、歴史を描いた詩です。


kin:
ま、まず。詩の中に「曽(かつ)ては流氷(ザエ)に血がまじり」というくだりがあるね。 歴史や、Volgaを取り巻く人間は移りゆくけど、Volga自体は変わらずに、ある。 従って、相対的な存在である人間、不変のものとしてのVolgaという対比でものを見ようとしている詩人の意図は明らかだよね。

団員:
まあ・・。それはそうですね。

kin:
では、Volga自体に不変なもの、絶対的なものを読み込もうとしてると考えてみよう。 その場合の「絶対的なもの」とは、なんだろう。
この文脈では、「歴史を歴史として成り立たせるための根拠」を指すものでなくてはならない。 「歴史の成立にかかわる論理」そのものということだね。
そういうものから見れば、その都度その都度の歴史の一断片(コマギレ)などというものは、 いってみれば、大河に対する「水しぶき」に過ぎないわけだ。

団員:
いまいち、わかりませんが、どういうことですか?

kin:
我々は、通常、水しぶきが上がり、消えていくその点の軌道の動きをみて、それが歴史だと思っている。 豊臣が滅び、徳川が興る、その動きをみてそれが歴史だと思っている。しかし、それらは、すべて点の軌道に過ぎないんだね。 水しぶきを見ているのであって、大河を観ている訳ではない。 Volgaという詩の中における、Volgaには、文字どおり「悠々の母なる動脈」つまり、「歴史の水しぶきたち」の母として、 その成立の根底にかかわる動脈としての役割が、詩人によって看取られているような気がするよ。

団員:
なるほど。

kin:
そして、この場合の大河というのは、水しぶきたちの相対的な動きとは異なる、それの「源になるような機能」という意味になってくるし、 もっといえば、時間軸上の点の連続のようなもの、一方方向の直線のようなものではないのだから、 逆流ということは、むしろ当然のように起こる訳だね。

団員:
もともと逆流も順流も含むようなもの、ということですか?

kin:
そういうイメージになるだろうね。 順流も逆流も含んでいるから、時には、 草野心平さんが観たように、かつての血のまじった流氷をも映し出す。
「逆流し」の説明を、タイムマシンとか、文学的比喩だからとか、 そういう言葉以外でしようとすると、以上のような解釈も一つあるのかなあ、と。

団員:
ふーむ・・。

参考文献

廣瀬量平 『男声合唱組曲 五つのラメント〜草野心平の詩による〜』カワイ合唱文庫
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集V』 岩波文庫

by kin 2011/11/19 11:50 



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