▲男声合唱組曲「わが歳月」から
 U.春 V.空谷
演奏:益楽男グリークラブ 2014年
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阪田寛夫の言葉遊びと「わが歳月」の詩について

1.阪田寛夫の背景

阪田寛夫は、「音楽がわかる詩人」「こどもの心をもった詩人」と言われる。その背景には、厳格なクリスチャンの家に生まれ、つねに讃美歌や西洋音楽が流れているような環境で育ったこと、また、叔父の大中寅二、その子供で生涯のよき作曲のパートナーであった大中恩の影響がある。


2.阪田寛夫の『歌の根っこ』

彼の歌の根源はどこにあるのだろうか。彼の詩には、ナンセンス(超現実的)でグロテスクな表現が多く用いられている。そのシュールな映像性と音響とリズムは、彼の無意識に潜在する童謡と厳格なキリスト教(秩序)の転倒があってこそ生まれたものであろう。

「理想的な童謡」について阪田はこう述べている。

ひびきと、リズムと、意味が一つになっていてもそれも意味らしい意味ではなく、その代わりにどんな風にも解釈できる大きさと深さを持っている。(中略)少しおかしくて、はかないところがあります。口に乗りやすくて、しかも人生のかんじんな時に限ってとびだしてくるような一面もあります。ああ、どうかこのような言葉に自分もめぐりあいたいものだと、私は時どき思うのです。
(『童謡でてこい』河出文庫)

また、キリスト教についてこのように述べている。

小学生の私にとって、最も辛いのは両親とピクニックに行くことであった。(中略)両親と私たち子供は瓢箪山の中腹で讃美歌を合唱してからサンドイッチを食べた。(中略)異教徒たちの射すような眼が恐ろしく、私は黙ってしまう。しかし、母は決してそれを許さなかった。 彼女は私を叱りつけ、かつて江戸堀の教会で歌ったように天にひびく声で誇らかに歌い続けながら、立木の枝を引き裂いて私の膝の裏を激しく打った。父や母にとって新時代の旗印であったキリスト教、讃美歌、西洋音楽などというものは、私にとって近所迷惑な厄介者に過ぎない。
(阪田寛夫著「音楽入門」『土の器』文藝春秋 1985年)

このような体験は、彼を卑屈にさせ、それにこだわって成長した阪田は、内面に「子どもの心」を持ち続けた。皮肉にも、その両親が闘病のすえ死に直面したとき頼ったのは、それほど心酔していたキリスト教ではなかった。父が、臨終のまぎわに、親しんだ西洋音楽でなく日本の子守唄に回帰したように、阪田の歌の根源には、幼少期(無意識)のうちに培われた童謡と秩序から解放されようとするシュールレアリスム、<ナンセンス>が生き続けている。


3.この研究のきっかけと考え方

阪田は、キリスト教徒という宿命をネガティヴに語っているが、彼の作品の言葉には無意識から湧きあがったキリスト教的な部分が多く感じ取れる。詩全体には阪田の言うように<意味らしい意味はない>かもしれないが、その一つひとつの言葉の背景には阪田らしい意味があるように思う。彼の書いた全ての詩を繰りながら、「わが歳月」の詩について考えてみようと思う。


4.男声合唱組曲「わが歳月」

この組曲の詩の多くは組詩『歳月』から採用されている。その中の『葉月』は、同志社グリークラブが歌うとのことで大阪弁を用いて書かれた。失恋し、電車へ投身自殺を図ろうとしているような内容だが、その口調と戯画的な描写からはそのユーモアと力強さを感じる。『葉月』をはじめとしてこの組詩全体をある一人の男の歳月とも理解できるが、ここで『魚とオレンジ』という組詩を例にあげて考えてみたいと思う。この詩もやはり女の半世紀を書いているようにみえるが、その詩について阪田自身はこう述べている。

これを「女ごころ」の歌と考えて下さる方があれば、それはそれで光栄ですけれども、私は「人間」が変えられる――自分を越える圧倒的な何ものかの力で、今までの自分ではなくなる時に直面すること、を主題にしたつもりです。自分を中心に生きている童話的な時間から、圧倒的なものによって生かされている神話的な時間への変わり目、その怖れと、もしそう言うことを許されるならば歓びとを、私は最後の二行の、わたしはさかな!/わたしはオレンジ! という言葉によってあらわしたかったのです。
(「『魚とオレンジ』についての意見」歌曲集『魚とオレンジ』の巻頭に掲載)

つまり、この『歳月』という組詩にも「自分を越える圧倒的な何ものかの力で、今までの自分ではなくなる時に直面する」ことへの「怖れと歓び」があるのではないか、と私は感じずにはいられない。それを踏まえて、阪田がこの詩において用いた言葉を考えていく。


葉月のお月

お月さん/お月さん やて/あほうなことを云いました
と「お月さん」と呼びかけて「お月さんやて」と自嘲する。題に「お月」と加えていることからも、「月」には意味があると言えよう。キリスト教において、「月」は大天使ガブリエル(懐胎告知をした唯一の女性の天使)を意味し、「水」「出産」と関連付けられている。彼の詩に登場する「月」には女性、母のイメージが重なる。

『つきよ』
じいたんも ゆたかね/じいたんの ゆたか/だれに きせてもらったの?/ちさちゃんも ゆかたね/ちさちゃんの ゆかた/だれに きせてもらったの?/きまってるでしょ/おかあさんよ じいたんは?/きまってるでしょ/おつきさんよ/へええ/じいたんの おかあさんは/おつきさんなの?/へえ/ちさちゃんの おつさんは/おかあさんなの?


音立てて

今年が崩れて行く/もうあと少しで/のぼりつめるところだったのに/月と日が崩れ/明日と昨日が崩れ/(中略)おれは走る/走る
今年、月と日、明日と今日というように、徐々に時間が崩れて行く。
ちなみに、「月」を大天使ガブリエルとすると、「日」は大天使ミカエル(悪魔を退治した知力と武勇に優れた男性の天使)であり、「火」や「死」と関連付けられている。<のぼりつめるところだったのに/月と日が崩れ>は、時間、つまりキリスト教的な生と死という秩序が崩れていくと捉えても面白い。


十月

この詩は、組詩『歳月』にも全詩集の中にも見つけることができなかった。
<幸いなるかな>とつづくこの詩から、聖書の「山上の説法」が思い浮かぶが、「十月に生まれしものは」と阪田自身の誕生日と絡めるユーモアに、熱心な信仰心を表したものというよりも、それをパロディー化したものと受け取れるのではないだろうか。

幸いなるかな 心の清き者/その人は神を見ん(マタイによる福音書5章8節)
幸いなるかな 憐みのある者/その人は憐みを得ん(マタイによる福音書5章7節)


空谷

はや六月 潮は満ち/川辺に寄せる漣に/業深き地球の、今なお/巡りつゝあるを知る
(中略)自らの重みに屈しつゝ/満員電車は走る(後略)
この詩の潮が満ちから「生」を、漣から「死」を連想することができる。
<潮>から「生命」を連想することは納得してもらえると思うが、<漣>については、彼の『さざなみや』と題された詩がある。

『さざなみや』

集会所では団地の葬式/黒服のおとなが二人/すべり台の下に腰かけています/風がおこり/一めんの花びらの波が/すべり台のすそを洗いました(後略)

<業深き地球>とは何だろう。業というと、まずは繰り返される人間の行為(カルマ)のようなものを連想するであろう。しかし、あえてここでキリスト教的に考えてみた。業について、聖書にはこう書かれている。 <弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したものでもなく、また、その両親が犯したものでもない。ただ神の御業が、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書第9章2〜3節)>イエスは因果応報を否定し、すべての者に神の支配がおよんでいる、神よって救われているのだと説いた。<業深き地球>を「神の御業がおよんでいる国」と捉えてみるのも面白い。余談だが、ヨハネの誕生日が6月であり、聖ヨハネの日と結びつけられて夏至祭が行われる。<あはれ六月の都大路は砂漠にて>

一方で、<処女たちの白き腕>や<処女の脇毛>など人間臭く儚きものを生々しく描き、「自分を越える圧倒的な力」との対比がより鮮明に浮かび上がってくる。

また、<業><象><犀>からは仏教的な世界も見えてくる。<業深き地球の、今なお/巡りつゝあるを知る>とは輪廻転生のことだろうか。<犀歩め>と力強く歌うところには「犀の角が一つしかないように、他にわずらわされることなく独りで歩め」という意味があるように思う。(「スッパニパータ」第一 蛇の章 三、犀の角,35〜75)しかしながら、仏教用語だとすると<象たちよ>と複数形であることに疑問を持つが、阪田自身が言葉にはそれほどの意味はなくリズムや音響を重視していると言っていることから、矛盾とは言えない。ここまで、さんざん言葉の意味を述べてきたが、もしかしたら、阪田の言葉遊びのようなもので詩全体の物語性はないのかもしれない。こうした意味づけの解体こそが阪田らしいナンセンスと言えよう。

(2017/02/12追記)
<象>について、ブッダが現れたものである「白象」のことと思ったが、象が登場するブッダの言葉をみつけたので追記する。
「つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。―泥沼に落ち込んだ象のように。(中略)孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。―林の中にいる象のように。」 (「ダンマパダ」第23章 象,327〜330)


我が二月

阪田のナンセンスは、特にこの詩にあらわれている。
ラーメン屋台の裏路地に/シャム猫の首ころがれり/ひげ長き首をけとばせば/青白き火花ばちばち/とぶかと見えて/かさ、とくだけぬ
阪田が猫に対して残酷な描写をするのには、「魔女の手先」というイメージがあるからだろうか。シャム猫といえば、王室や貴族が飼った高貴な猫である。その首がラーメン屋台の裏路地にころがっているという秩序の転倒がある。そればかりか、その首をけとばしてくだけるという、グロテスクで超現実的で、生命を感じさせない不気味なパワーがある。ただ何となく、風が吹き、星が落ちてくるような冷たい冬の空に、寒く寂しい冬の情景と「死」を連想する。<風吹き星落つ>
また、彼の詩の中には、しばしば、空−電車−星、海−川−魚が対応しているかのように用いられている。

『空の川』

この川のはじまりはどこ?/(中略)川のはじまりは空だった/この川のおわりはどこ?/テトラポッドにかみつく波/(中略)川のはじまりは空/川のおわりは海(後略)


『ぼくは川』

(前略)土と砂をうるおして/くねって うねって ほとばしり/とまれと言っても もうとまらない/ぼくは川/真赤な月にのたうったり/砂漠のなかに渇いたり/それでも雲の影うかべ/さかなのうろこを光らせて/あたらしい日へほとばしる/あたらしい日へほとばしる

さらに、実は、もともとこの『歳月』という組詩には『今日の電車』という詩がある。


『今日の電車』

電車の中に/はえている首/あざのある首/疲れた首/眼のついた首/首首/(中略)電車は走っていますけど/その外側は山でして/山の上には ぱくっと裂けた深い闇/そこへ向ってわれらは走る/(中略)首々積んで/今日の電車が空へ堕ちる

これは私の妄想だが、「風」がキリスト教においての「聖霊、神の力」であるとすると、「星」とは「命」である。神の力によって命が落ちていく寂しい冬を描いていると捉えても面白いのではないだろうか。


この詩は、組詩『わたしの動物園』から採用されている。この組曲に採用されるにあたり、少々書き換えがされている。<ミネトンカ・トンカ・トンカ・トン>には<コロリン>が加えられ、<なにもないのよ>が<何にもないよ>と変えられている。この詩が、意味ではなく、明らかに音響やリズムを重視して加えられていることが想像できる。この組曲から暗いものではなく面白さを感じるのは、このためではないだろうか。
また、<きみの靴の下 たんぽぽが死んでる>というような花に対する屈折した描写には、阪田のこんなエピソードがうかがえる。

この母と一緒に歩くと、必ず花の名前が出てきた。(中略)「また始まった」と煩わしくて、いつもふんふんと見もしないで私は生返事をしていた。私が花に興味がなく、むしろ反撥するような気持ちさえ持ってきたのはそのせいかも知れない。
(阪田寛夫著『土の器』136頁)


5.阪田寛夫の言葉遊びと大中恩の音楽

これまで、「わが歳月」の詩について説明をしてきたが、あえて月の順は無視した。組曲の中では二月、四月、六月、八月、十月、十二月と季節を巡っているが、それも阪田の遊びなのではないだろうか。四月に別の組詩から『春』を採用していることからも、一連の物語的な意味があるとは思えない。
また、この詩に対して作曲された大中恩の音楽からも、たびたび登場する「死」を連想される描写とは裏腹にどこかおかしさを感じるところに、阪田寛夫の目指した無意識の童謡の世界<ナンセンス>が生きているように思える。

最後に、私がこの組曲から受け取ったメッセージを述べてみたい。
闇に向かって山のなかを走る<満員電車>は、組曲の最後には、時間が崩れ、瓦礫の街を<おれ>は走ると力強く歌われる。そこには、自分を越える圧倒的な力によって生かされている神話的な時間と今までの自分ではなくなる時に直面する怖れ、秩序が崩れてもなお走り続ける力強さ、つまり、信仰からの解放と生きる歓びが表現されているのではないだろうか。


【参考文献】
  • 谷悦子(著)『阪田寛夫の世界』,和泉書院,2007年
  • 阪田寛夫(著)『土の器』,文藝春秋,1975年
  • 伊藤英治(編)『阪田寛夫全詩集』,理論社,2011年
  • 阪田寛夫(著)『受けたもの伝えたいもの』,日本キリスト教団出版局,2003年
  • 中村元(訳)『ブッダのことば スッタニパータ』,岩波文庫,1984年
  • 中村元(訳)『ブッダの心理ことば 感興のことば』,岩波文庫,1984年
    ―心理のことば(ダンマパダ)、感興のことば(ウダーナヴァルガ)

by でんで 2017/02/05 




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