男声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より IV
    作曲: 千原 英喜

演奏:男声合唱団 羅面琴


混声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より V
    作曲: 千原 英喜

演奏:大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団


キリストに倣いて
国立国会図書館デジタルコレクションより http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185351http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040999

こんてむつすむん地
国立国会図書館デジタルコレクションより http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185351

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トマス・ア・ケンピス
『キリストにならいて』及び『こんてむつすむん地』について


トマス・ア・ケンピス<Thomas à Kempis>


1379年または1380年に、ドイツのケンペンにて生を受ける。
貧しい農家の家庭で育ったことと、12歳の時に当時有名であったデヴェンテルの学院に入ったことが、彼の精神に大きく影響を与えたとされる。
1413年に聖アグネス修道院の司祭となり、その後の一生を修道院内で過ごし、黙想と祈祷を続ける生活の中、『キリストに倣いて』を始めとする、約38種の著書を執筆した。



『キリストにならいて』<De imitatione Christi>


第一巻 霊の生活に役立ついましめ(1410年)
第二巻 内なることに関するすすめ(1412年)
第三巻 内面的な慰めについて  (1414年)
第四巻 祭壇の秘蹟について   (1441年)

の計四巻からなり、トマス自身の宗教体験をもとに、修道士たちの精神生活の完成を目的として書かれた。神への畏敬のない知、神へのあいのない生の空しさが説かれ、世界中で聖書の次に多く読まれた書物と言われる程、広く深い影響をキリスト教徒を始めとする人々に与えた。それ故、本書を「光と命の書」と呼ぶ者も。



『こんてむつすむん地』


16世紀末から17世紀初頭の間、主に日本でのキリスト教布教のため、イエズス会の巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノ中心に西洋印刷機を用いて印刷された出版物のことを「きりしたん版」と言う。きりしたん版には『どちりなきりしたん』や『サクラメント提要』など様々なものがあり、『こんてむつすむん地』もその中の一冊である。
『こんてむつすむん地』は、『キリストにならいて』の抄訳国字本であり、『キリストにならいて』第一巻第一章の章題である、<De Imitatione Christi et Contemptu Omnium Vanitatum Mundi>に書名を由来する。
ローマ字の全編翻訳書である『コンデムツス・ムンヂ』と比較して、外来語がなるべく使われていない、ほぼ平仮名の平易な文章を特徴とする。


「どちりなきりしたん」IV の関連箇所抜粋


(『キリストにならいて』 大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年
 『吉利支丹文學集 上』 新村出・柊源一校註、朝日新聞社、1957年 より)


『キリストにならいて』

第一巻
第一章 キリストにならって、すべてこの世のむなしいものを軽んずべきこと

 私に従うものは暗の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯の振舞とにならえと訓えるものである。それゆえキリストの生涯にふかく思いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。
 キリストの教えは、聖徒たちのすべての教えに優る、彼の精神を守るものは、その中に秘されているマナを見つけるだろう。けれども、たまたま、福音をいくたびも聞いていながら、キリストの精神をもたないため、それに対しわずかなあこがれをしか感じないものが多い。それゆえキリストのことばを十分によく味わい理解しようと思うものは、自分の全生活を彼に従わせるよう努むべきである。
 もしもあなたが謙遜を欠き、従って三位一体(の意)に適わないなら、三位一体について高遠な論議をしたところで、何の益があろうか。まことに高邁ことばが、聖徒や義人をつくるものではなくて、徳のある生活が人を神に愛されるものとするのである。私は悔恨の定義を知るよりも、悔恨の情を感ずることの方を選ぶ。たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みとがなければ、その全てに何の益があろう。神を愛し、それだけに仕えること、それ以外は、空の空、すべてが空である(伝道・一の一)。この世を軽んずることによって天国に向かうこと、これが最高の知恵である。
 それゆえ、いずれは亡ぶべき富を求め、それに望みをおくのは、空しいことである。また名誉を求め、高い地位に登ろうとするのも空しいことである。肉の望みに従い、後でそのために重く罰せられるべきものを乞い願うのは、空しいことである。この世のいのちについてのみ、気を使い、のちの世のことにあらかじめ用意しないのは空しいことである。いと速かに過ぎ去るものを愛して、かしこ、永遠の喜びの続くところに急いで往かないのは、空しいことである。
 かの諺をしばしば憶い返すがいい。眼は見るものに満足せず、耳はきくものにみたされない(集会書・一の八)。それゆえあなたの心を、見えるものへの愛着から引きはなし、見えないものに移すように努めなさい。何となれば、自己の官能の欲に従うものは、良心をけがし、神の恵みを失うからである。

   (中略)


第二巻
第一章 内なる交わりについて

 神の国はあなたがたの内に在る」と主はいわれる。心を傾けて主に向かいなさい。そしてこのみじめな世を捨てなさい。そうすればあなたの魂は平安を見出すであろう。外的なものを軽んじ、内的なものに身を委ねることを学びなさい。そうすれば神の国があなたのうちに来るのを見るであろう。というのは神の国は、「聖霊における安らぎと喜び」であって、不信な人々には与えられないものなのだから(ローマ・一四の一七)。もしもあなたが心の内に、彼にふさわしいすみかを備えるならば、キリストはあなたのもとへ来て、その慰めをあなたにさし出したもうであろう。「彼のすべての栄光」(詩篇・四五の一三)と荘厳とは、内からのものである、そうして彼はそこに喜びを覚えられるのだ。

   (後略)


『こんてむつすむん地』

巻第一
第一 世界のみもなき事をいとひぜずきりしとをまなひ奉ること

Qui sequitur me,non ambulat in teneburis,sed habebit lumen vitae. Joaõ.8.
 御あるじのたまはく○われをしたふものはやみをゆかず、ただ命のひかりをもつべしと○心のやみをのがれ、まことのひかりをえたくおもはゞ、きりしとの御かうせきと御かたぎをまなび奉れと○この御ことばをもてすすめたまふ也。しかるときんば、きしとの御こうせきをくはんねんする事をわれらが第一のがくもんとすべし○きりしとの御をしへはもろ〱の善人のをしへにすぐれたまへり○善のみちにいたりたらん人は、こゝにかくれたる天のかんみをおぼゆべし
 ○しかるにおほくの人きりしとの御法をしげくちやうもんすれども、善の望みすくなき事あり○これきりしとの御をしへをあぢはひ奉らぬゆへなり○きりしとの御ことばをあちはひ、ふかくふんべつしたくおもはゞ、わが身のしんだいこと〲くきりしとにひとしくし奉らんとなげくべし○へりくだりなきによて、ちりんだあでの御ないせうをそむき奉らば、其御ないせうのたかき御事をろんじてもなにのゑきぞ○まことにこびたることばは、善人にもたゞしき人にもなさず。たゞ善のおこなひこそ、人をでうすの御ないせうにあはせ奉る者也○こんちりさんといふこうくはいのことはりをしるよりも、それを心にたもつ事はなをこのましき事也○びいびりあといふたつとききやうもんのうへをこと〲くそらんじ、もろ〱のがくしやうのごをしりつくしても、でうすの御大切とがらさなくんば、みななにのゑきぞ○でうす御一たいを大切におもひ、つかえ奉る事よりほかは、みもなき事のみなみもなき事也○世をいとひて天のくににいたらんとこゝろざすこと、さいじやうのちゑなり。しかるときんば、はつるたからをたづねもとめ、それにたのみをかくる事、みもなき事也くらゐほまれをのぞみなげき、身をたかぶる事も、みもなき事なり○こつにくののぞみをしたひ、いごふかくめいわくすべき事をのぞむは、みもなき事也○ぎやうぎのたゞしからん事をなげかずして、ながいきをのぞむは、みもなき事也○げんざいの事をのみもつぱらとして、みらいのかくごをせぬ事は、みもなき事也○はやくはつる事を大切におもひ、はつる事なきたのしみをいそぎもとめぬも、みもなき事也○人のまなこは見る事にあかず、みゝはきく事にたつせずといふごをつねに思ひいだすべし○しかるときんば、わが心をもくぜんの事よりはなち、目にみえぬかたにうつす事をなげくべし。其ゆへはしきしんのみだりなるのおみをしたふものは、こんしゑんしやをけがし、でうすのがらさをうしなふ者也。

   (中略)


きりしとをまなび奉るきやう巻第二
第一 心中にでうすとむつましくさんくはいし奉る事

 御あるじの御ことばに、Regnu Dai intra vos est. Luc.17. でうすの御くにはなんだちのうちにありといふごなり○こゝろのそこよりでうすにたちかへり奉り、此はかなきせかいをいとうふべし。しからばなんぢのあにまくつろぎを見つくべし。○ほかなる事をすて、うちの事をもつぱらとするみちをならふにをひては、でうすの御くになんぢにきたりたまふ事をわきまふべし○でうすの御くにといふはぶじとすぴりつさんちのよろこびなれば、あくにんにはあたへられず○なんぢの心中ににあいたるみざをとゝのゆるにをひては、きりしとなんぢにきたりたまひ、御身のよろこびを見せたまふべし○御あるじの御いくはうとゆゝしさはみなないしんにあり。そこにて御きしよくよくまします也

   (後略)


【参考文献】

  • 『キリストにならいて』トマス・ア・ケンピス著、大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年
  • 『イミタチオ・クリスティ』トマス・ア・ケンピス著、永野藤夫訳、エルサレム文庫、1986年
  • 『吉利支丹文學集 上』新村出・柊源一校註、朝日新聞社、1957年
  • 『きりしたん版集 一』天理時報社、1976年
  • 『こんてむつすむん地−本文と注解−』松本洸司著、ゆまに書房、1996年

by ざびゑる 2014/08/13 




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