少年期の心と「おやすみ」の音楽的表現について
親を赦せるか
(草稿より原文のまま掲載)
「おやすみ」で描かれるような、少年期の心というのは、概して未だ自我が両親から切り離されていないものではないだろうか。多くの場合、子供は保護者に影響され、――従順にしろ反発にしろ、それに対する反応の形で自我が形成されていくことは、この時代の心の成長の多くを担うのではないか。
子供は大人から未分化なのである。
「おやすみ」の少年は、それと無理やり引き離された。そればかりか、そこに拭い難い烙印をも押され、背負わされることになる。
社会は彼に、「あり方」を求めるだろう。加害者の息子として、交通事故孤児として……それに対する反発や対応が、組曲『日曜日〜ひとりぼっちの祈り〜』の前段で歌われてくる。では、「おやすみ」の立場は何か?
周りからのまなざしや答えは、彼に応答を求め、彼を責め、あるいは彼を赦すだろうがそれは彼自身の、傷に答えを与えることはない。
彼自身の傷は、彼にしか向き合えないものだ。そしてそれは、「親を赦せるか」というこの曲の命題となっている。
「自分自身を赦していいのか」「自分は赦されていいのか」という罪の意識は、<親との未分化>という性質、無意識下での同一視。
表では自分は親とは違うと思いながらも、まだ親と自分を切り離せていない…
<親を赦そうとする自分><親を赦せない自分>
<赦されたい自分><赦されてはいけない自分>
この曲のもうひとつの姿は、<子どもらしさ>であると、僕は思う。
最後に歌われる子守唄は、<おやすみなさい>と歌う。自分に向けた子守唄なのか、考えるに疲れ、眠たさが勝り、思考力は鈍っていき、そうやって眠りに誘われる子供の心は穏やかであろう。安らかであろう。その時、彼は、ただ純粋に赦されているのではないか。
眠りに落ちるとき、もはや彼は、世界を、親を内面化せず、ただ一人である。そこには、責めも恨みも、欠け落ちている。ただ、無垢なる子供の姿だけがある。勿論、朝が来れば、彼はまた再び、責め赦そうとその狭間で悩み苦しむだろう。それでも今一時は、子供らしい眠りについてほしいと願わずにはいられない。
「親」を「赦す」ということ
立場の転倒・未知の領域
↓
「かみさん」という、より上位への仮託
「かみさんに…」
「そんで(かみさんに)天国へいかしてもらいや」
それは彼が親を赦すことでも、彼自身を赦すことでもある。だが彼自身がまっさらになるわけではない。
葛藤は「また明日」も続くであろう。
音楽的表現について
(草稿より原文のまま掲載)
心情・心の色…その調であることの絶対性
・「相対的な音感」とは何か?
・しっかり上がる、しっかり下がる
・声を混ぜる
無意識の二面性
怒り
同一視と自罰感情
母と父
死を受け入れるということ(「おやすみ」と言えるか)
ねたかはおきてるかの裏返し
1.予感(基本となるカデンツ、ハーフディミニッシュの連続、三全音代理(tritone substitution)の登場)
2.萌芽(属調転調、ドミナントの強調、三全音代理によるドミナントの連続)
3.二項対立(歌とピアノのデュナーミクのずれ)
4.葛藤
5.もがき、そして浄化(一時の昇華)
6.安寧
TonicとSubdominantの連続、ハーモニックリズムの差異に着目
by 下河原建太 2014/09/03 Tweet