HomeArchive研究コラム > 寺山修司の詩について

寺山修司の詩について


寺山修司氏の詩に使われている言葉は、たいていありふれた、いつもその辺でお目にかかっているものばかりなのだが、それを氏がピンセットでつまんで、氏特有の「詩」という装置に仕掛けると、とたんにその言葉が本来持っている最もナイーブなものが、私たちの前に開けてくるような気がしてくる。それはたとえば、野の草花ばかり扱う、腕のいい生花の仕事ににているかもしれない。氏はその草花を、何事かのために奉仕させるのではなくて生花という装置を通じて、それが既に内包しているものを、ただ見出だそうとするのである。

ドラマは、言葉はそれを自体の討ちに、深く内蔵されている。ただそれは、長い間の私たちの酷使から自らを保護すべく、硬い表皮で幾重にもおおわれているのである。つまり、氏の「詩」という装置はこの硬い表皮を一枚一枚剥ぎ取ってゆき、その内奥に眠るもので、やわらかな実質を、私たちの目の前に解き放つためのものに他ならない。

『一本の樹は、歴史ではなく、思い出である。一羽の鳥は、記憶ではなくて、愛である。一人の誕生は、経験ではなくて、物語である。』と、氏は言う。恐らくこの場合、歴史であり記憶であり経験であるものを、思い出であり愛であり物語であるものに、言い換えること自体に意味があるのではない。ただその言い換える作業を通じて一本の樹であり、一羽の鳥であり、一人の人間であるものの内奥に眠る、あらゆる言葉をこえた、やわらかな或る実質を言い当てようとしているのである。言ってみれば思い出も愛も物語も全てはこれを言い当てるための仕掛けに過ぎない。私たちは、一本の樹が思い出であることに感動するのではなく、一本の樹がまさしく一本の樹であることを知って感動するのである。

このように、私は氏の作業が、感覚的なものというよりは、ひどくメカニックなものである、という気がしてならないのである。

(劇作家 別所実の解説より)


これを参考にすると、歌詞のなかで繰り返し使われている、ある日の「子」、ヒスイの「ヒスイ」は出てくる旅に、その以前の意味を含みながら、また別の意味を帯びて私たちの前に表れてくる。それは過去の思いや決別、未来への展望や諦観であったりするのであろう。



by 史吟 2015/06/10 


ある日
詩 寺山修司

母のない子に 本がある

本のない子に 海がある

海のない子に 旅がある

旅がない子に 恋がある

恋のない子に 何がある?

(後略)


無伴奏男声合唱のための「カウボーイ・ポップ」より 4.ある日 5.ヒスイ
作詞:寺山修司  作曲:信長貴富  演奏:益楽男グリークラブ





inserted by FC2 system