混声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より T
    作曲: 千原 英喜

演奏:東京大学柏葉会合唱団
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歴史の中の一雫 〜不干斎ハビアン


不干斎ハビアンの経歴

1565年頃の生まれとされる。幼少期は不明だが加賀か越後の禅僧だったと思われる。なぜ仏教を棄てたかは不明だが、1590年に開催された「イエズス会第二回総協議会」に最年少の24歳で出席しおり、この議会は豊臣秀吉の伴天連追放令を受けて対策議会であったことから早い時期から注目された人物だったようだ。

イエズス会内にて宣教師への日本語指導や外国語書籍の翻訳などをしつつ、キリシタン擁護・仏教批判のための研究に没頭する。優れた説法者、論客としての才能を発揮して京都を中心とした近畿地方で活躍し、41歳のときにキリシタン擁護及び諸仏教・神道・儒教。道教批判書「妙貞問答」を執筆、発表する。

1606年に代表的なキリシタン大名であった黒田如水の三回忌追悼説法と担当して成功を収める。更に林羅山と対面、討論するなどの活動をする。しかし1608年、ハビアン44歳のときに一人の女性信者とイエズス会を脱会。のちに棄教し、1616年からは徳川幕府によるキリシタン取締りに協力する。
1620年にキリシタン批判書「破提宇子」を発表する。そして翌年に長崎にて死去。享年は56歳ぐらいと思われる。



不干斎ハビアンの評価とその人物像

キリスト教作家からは「転向者」「浅薄かつ底の浅いインテリ」「骨抜きにされたキリスト教徒」と罵られ、宗教学者からは中世において初めて主たる宗教を比較分析し相対化することのできた人物として評価する者がいるなど見る人によって落差の激しい評価をされる人物。

調べるかぎりでは激しい感情と強固な理性を併せ持ち、宗教というものに対してどこまでも理知的・論理的にアプローチをする。才気溢れ自我も自尊心も強い。自分の定めたルールに従い、そのためなら組織や集団とも敵対すること辞さない。身体的にも精神的にも理詰めに走りつづけた求道者といえる。

宗教者としては禅僧からキリスト教徒なり、脱会・棄教の人生の過程で当時の主たる宗教をすべて研究し相対化するという経験をする。彼はその生涯を諸宗教の比較・分析して、把握することに費やした。

最終的に教団や宗派という組織的な信仰や宗教に属さず、自我を保ったまま神や宗教に付き合う姿勢は中世より近代以降の人間性、あるいは現代にみられる「宗教の個人化」に通じるといえるかもしれない。



by 史吟 2015/02/10 






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