ざびゑるさんのまとめ
「ラテン語のアクセント位置の規則」

男声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より IV
    作曲: 千原 英喜

演奏:男声合唱団 羅面琴

演奏:なにわコラリアーズ

演奏:安積高校男声


混声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より IV
    作曲: 千原 英喜

演奏:愛媛県立西条高等学校合唱部

演奏:熊本大学教育学部附属中学校

演奏:大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団

演奏:東京大学柏葉会合唱団

演奏:混声合唱団CADENZA


混声合唱のための
   「どちりなきりしたん」より V
    作曲: 千原 英喜

演奏:大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団

演奏:東京大学柏葉会合唱団

演奏:混声合唱団CADENZA


HomeArchive研究コラム > どちりなきりしたんW・X ラテン語の発音と単語の意味

どちりなきりしたんW・X
   ラテン語の発音と単語の意味(日本語歌詞の現代語訳も)

  • 訳は複数のサイトから拾ってきたものを切り貼りし、整えました。
  • 発音は古典式ではなく教会式と呼ばれるものに準拠しました。ただ、ラテン語の発音は、この言語に固有の事情によって、 「正確な発音」を一義的に規定することが難しいので、以下の表記はあくまで参考程度と捉えていただきたいです。
  • とはいえ、ラテン語の発音が日本人には易しいものであることも事実です。というのも、母音が同じ(英語やフランス語などに見られる特殊な母音がラテン語にはない)であり、 大半がローマ字読みで対応可能、しかもアクセントの仕方も共通だからです(小林標『ラテン語の世界』中公新書、2006 年、82-6頁)。 日本人が国際学会で海外の学者にラテン語の発音を賞賛されたというエピソードもあります(小倉博行『ラテン語のしくみ』白水社、2007 年)。 これらは古典ラテン語に関する話ですが、教会式の発音にもある程度あてはまると思います。したがって、さまざまな音源の発音に臆することなく、 われわれに一日の長があるという気概をもってかまわないと、個人的には思っているのですが、いかがでしょうか。
  • それぞれの句や節を、1.原文(ルビで発音)、2.強勢(アクセント)をおいて読む箇所、3.各単語の意味、4.辞書に載っている形(そのままのものは省略)5.その箇所の邦訳という順序で並べました。
  • 調べきれなかったところがいくつかあるので、間違いや不明点などありましたら指摘していただけるとありがたいです。

どちりなきりしたん IV


クウィ
Qui
クウィ
〜な人は

セクウィトゥル
sequitur
 クウィ   
従う
sequor
メー
me,
メー
私に
ego
ノン
non
ノ 
not

アムブラト
ambulat
ア    
歩く
ambulo
イン
in
イ 
〜の中を

テネブリース
tenebris,
 ネ    

tenebrae
     
 
 
 
 
  =わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、

 セド 
sed
 セ  
but

アベービト
habebit
 ベー  
持つだろう
habeo
ルーメン
lumen
ルー  
光を

ヴィーテ
vitae.
ヴィー 
命の
vita
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
  =かえって命の光を持つだろう。
  ※[ハベービト]と読む音源もあるが、教会式は h を発音しない。後出の honor, homine も同様。

○聖書の出典は、新約:ヨハネ 8 章 12-20 節(長いので一部)
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。 それで、パリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。 自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。(後略)」
http://www.yoyoue.jpn.org/bible/joh.htm より引用。


レニュ
Regnu
レ  
国は
regnum
デイー
Dei
デ  
神の
Deus
イントラ
intra
イ   
〜の中に

ヴォース
vos
ヴォー 
あなたたち

エスト
est.
エ  
存在する
sum
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
  =神の国はあなたがたの内にある。
  ※[レグヌ]と読む音源もあるが、gn は[ɲ]なので、[ニャ・ニュ・ニョ]に近い音になる。

○聖書の出典は、新約:ルカ 17 章 20-21 節
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。 神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
shttp://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.htmlより引用。


はつる宝を訪ね求め、それに頼みを懸くること、
 失ってしまう財産を探し求めたり、当てのないそれを頼りとすること、

位、誉れを望み嘆き、身を高ぶること、
 位や誉れを望み、失ったときは嘆き、それでおごり高ぶること、

世界の実も無きことを厭い、ゼズキリシトを真似い奉るなり。
 こういった世界の虚しく価値のないことを厭い、イエス・キリストを真似し申し上げるのだ。

心の闇を遁れ、光り得んとおもわば、
 心の闇を逃れて、命の輝きを得ようと思うならば、

主の御功績を、学び奉れ。
 偉大なる主のご功績を、学び申し上げよ。

天の道に至りたらん人は、ここにかくれたる天の甘味をおぼゆるべし。
 神々の領域に至った(生天した)人は、ここに隠れている天国の快楽を感じるのです。

 http://www.uraken.net/urabe/music/Doctrina%20Christam%204%20Chihara%20Hideki.htmlより一部改変 して引用。


○どちりなWの以上の歌詞は、『どちりなきりしたん』からではなく、同時代のキリシタン版『こんてむつす むん地』(Contemptus Mundi:世界を軽蔑すること) =トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』から引用されたものです。邦訳(大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960 年) の該当箇所を引用し、歌詞と対応するところに下線を引いてみます。

  第一章 キリストにならって、すべてこの世の空しいものを軽んずべきこと

私に従うものは暗の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、 あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振舞とに倣えと教えるものである。 それゆえキリストの生涯に深く思いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。 キリストの教えは、聖徒たちのすべての教えに優る、彼の精神を守るものは、その中に秘されているマナを見つけるだろう。(15 頁)

それゆえ、いずれは亡ぶべき富を求め、それに望みをおくのは、空しいことである。また名誉を 求め、高い地位に登ろうとするのも空しいことである。(16 頁)

「神の国はあなたがたの内に在る」と主はいわれる。心を傾けて主に向かいなさい。 そしてこのみじめな世を捨てなさい。そうすればあなたの魂は平安を見いだすであろう。(69 頁)


タントゥム
Tantum
タ    
これほどの
Tantus
エルゴー
ergo
エ   
それゆえ

サクラーメントゥム
Sacramentum
    メ    
秘跡を

ヴェネレームル
veneremur
   レー  
歌おう
veneror
チェルヌイー
cernui:
チェ    
ひれ伏した
cernuus
     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
  =こんなにも偉大な秘蹟をひれ伏して崇めよう。

エト
Et
エ 
and

アンティークウム
antiquum
  ティー   
古い
antiquus
ドクメントゥム
documentum
  メ    
教えが

ノヴォー
novo
ノ   
新たな
novus
チェーダト
cedat
チェー  
〜に従いますように
cedo
リートゥイー
ritui:
リー    
儀式に
ritus
     
 
 
 
 
  =古い儀式が新しい儀式に道を譲りますように。

プレステト
Praestet
 レ   
与えますように
praesto
フィデース
fides
フィ   
信仰が

スップレーメントゥム
supplementum
     メ    
助けを

センスウム
sensuum
セ    
諸感覚の
sensus
デーフェクトゥイー
defectui.
  フェ     
欠陥に
defectus
     
 
 
 
 
  =願わくは信仰が五官の不足を補いますように。

ジェニトリー
Genitori
  ニ   
父に
genitor
ジェニトークウェ  
Genitoque
ジェ トー〔※補注〕
そして生まれたもの〔=子〕に
genitus+que
ラウス
Laus
ラ  
賞賛が

エト
 et 
エ 
and

ユービラーツィオー
jubilatio,
   ラー    
陽気な歌声が

     
 
 
 
 
     
 
 
 
 
  =父と子に、賛美と賛歌がありますように。

サルース
Salus,
サ   
救いが

オノル
honor,
オ  
栄誉が

ヴィルトゥース
virtus
ヴィ     
卓越性が

クウォクウェ
quoque
 ウォ   
同じく

スィト
sit
スィ 
be動詞
sum
エト
et
エ 
and

ベネディクツィオー
benedictio:
  ディ     
祝福が

     
 
 
 
 
  =同様に、救い、栄誉、力、そして祝福がありますように。

プローチェーデンティー
Procedenti
      デ    
生じたもの〔=精霊〕に
procendo
アブ
ab
ア 
〜から

ウトロークウェ
utroque
  ロ    
両方

コムパール
compar
コ    
等しく

スィト
sit
スィ 
be動詞

ラウダーツィオー
laudatio.
  ダー    
賞賛が

アーメーン
Amen.
アー   
そうでありますように

  =両者から出た精霊にも、等しく讚美がありますように。アーメン。

※補注:Genitoque の発音について
この語は例外的に二箇所にアクセントが置かれます。これは、〈前接語(=直前の語にくっついて意味を付加する語。後倚辞[こういじ]とも呼ばれる)である que の前にアクセントを置く〉 という規則に加えて、もうひとつ細かい(=心躍る)規則があるからです。

前接辞 que が付加される単語 Genito のアクセントは、後ろから三番目の音節である[ジェ]に置かれます(ざびゑるさんのまとめにあるように、後ろから二番目の音節[ニ]が長母音ではないから)。 このGenito のような、〈後ろから三番目の音節にアクセントを置く単語〉に前接語を付加する場合、queの直前の音節にアクセントが置かれると同時に、本来のアクセントも残るという規則があるのです。
したがって、Genitoque にはアクセントが二つ置かれるのです。詳しくは、松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』(東洋出版、1992 年)§31 の注をご覧ください。


どちりなきりしたん V  エピローグ:Ave verum Corpus


アヴェー
Ave
ア   
幸福であれ
aveo
ヴェールム
verum
ヴェー   
真実の
verus
コルプス
Corpus
コ   
体が

ナートゥム
natum
ナー   
生まれた
natus
デー
de
デー
〜から

マリーアー
Maria
 リー  
マリア

ヴィルジネ
Virgine:
ヴィ   
処女
virgo
     
 
 
 
 
  =処女マリアより生まれた、めでたし、真実の御身体よ。

ヴェーレー
Vere
ヴェー  
まことに

パッスム
passum,
パ   
苦しまされた
patior
インモラートゥム
immolatum
   ラー   
いけにえにされた
immolo
イン
in
イ 
〜において

クルチェ
cruce
 ル  
十字架
crux
プロー
pro
 ロー
〜のために

オミネ
homine:
オ  
人類
homo
     
 
 
 
 
  =人類のために、真に苦しみを受け、十字架の上で犠牲として捧げられました。

クーユス
Cujus
クー  
その人の
qui
ラトゥス
latus
ラ   
横腹は

ペルフォラートゥム
perforatum
   ラー   
突き刺された
perforo
フルクスィト
fluxit
 ル    
流れた
fluo
アクウァー
aqua
ア    
水が

エト
et
エ 
and

サングイネ
sanguine:
  グ  
血が
sanguis
     
 
 
 
 
  =その人の刺し貫かれた脇腹は、水と血が流れるという状態にありました。

エストー
Esto
エ   
(汝は)であれ
sum
ノービース
nobis
ノー   
 私たちにとって
nos
プレグスタートゥム
praegustatum
    ター   
前兆
praegusto
モルティス
 mortis
モ    
死の
mors
イン
in
イ 
〜において

エグザーミネ
examine
  ザー  
試練
examen
     
 
 
 
 
  =私たちにとって死の試練を前もって味わう者となってください。
   私たちの臨終の試練をあらかじめ知らせてください。
   Be a foretaste for us in the trial of death.
   (この文には多くの異なる訳があったので、さしあたり三つを併記しました。)
※[エクサミネ]と読む音源もある。母音に挟まれた x は、軽い濁音になるようですが、本やサイトによって扱いがまちまちで、 まったく言及していないものもあります。ただ、共通していることとして、あからさまに[g]や[z]の子音を立てるのは不自然だ、 ということです。


○聖書の関連個所は、新約:ヨハネ 19 章 31-34 節
その日〔イエスが処刑された日:引用者〕は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、 ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が〔死を確かめるため※〕槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
http://www.yoyoue.jpn.org/bible/joh.htmより引用。
※これは、『新約聖書 福音書』(塚本虎二訳、岩波文庫、1963 年)の訳者による補足です。


○Ave verum corpus について参考になる記事があったので引用します。
聖体拝領の際に用いられる言葉。聖体拝領は最後の晩餐(新約:マタイ 26 章 26〜29 節、マルコ 14章 22〜25 節、ルカ 22 章 17〜20 節) を追体験するもので、イエス・キリストの体の象徴であるパンをみなで食べることによって、神と信者、信者と信者の結びつきを確認する。 キリストの体を食べる者には、永遠の生命と世の終わりでの復活が約束されている(新約:ヨハネ 6 章 54〜59 節)。

最後の一節は直訳すれば「あなたは私たちに食べられて下さい」であるが、これは「私たちと結びついていて下さい」というのと同じことである。 作詞者は不明である。
http://jfly.iam.u-tokyo.ac.jp/music/musica_sacra.pdfより引用。

また、新約:第一コリント 11 章 23-26 節にも関連する記述があります。

私〔パウロ〕は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 「感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 〔下線部がXの Esto nobis〜の典拠だと思われます。〕
http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1/10506754.htmlより引用。

by OMY 2014/03/14 




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