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Vol.1 合唱対話篇

第10回 天体の音楽(5)―クザーヌス 無限についての対話―


さかわの:
今回は、いよいよクザーヌスの成した仕事と、天体の音楽とのかかわりについてのお話です。

前回までのお話では、ピタゴラス派、プラトン、アウグスティヌス達のように、数比の論理を重視して自然や音楽を考える思想家が多かったと思います。というより偉大な思想家は数比の論理をしっかり基礎に据えて考えるという伝統があったんじゃないでしょうか。ピタゴラス派的な思考法の批判者であるアリストクセノスでさえ、「感覚器官に備わった比例形式」というアリストテレス由来の考えを前提とした音階論ではないかという推察は可能でした。

KIN:
そうだね。その点、今回取り上げるクザーヌスは、そうした数比による思考方法を継承しつつ、革新をもたらした人であると考えられるんだ。そればかりではなく宇宙論および音楽論にまで革命的な変化を与えた。

しかしながら、天体の音楽という文脈でクザーヌスの名が挙げることは、ピタゴラス、プラトン、ボエティウスらの名前が挙げられる頻度に比較すれば、圧倒的に少ないのではないかと思う(参考文献に挙げているファーガソンは例外的と思われる)。
でも、音楽学者の野村良雄先生は、著書「改訂 音楽美学」の中で、クザーヌスの業績が「音楽にとって決定的に重大と思われる」と指摘しているよ。

さかわの:
音楽美学の観点からクザーヌスの思想が重要視されているのはどうしてなのですか。

KIN:
野村良雄先生の考えは、『音楽的論理というものは優れて多次元的であってあらゆる関係を成立させるもの。他方、音楽的精神は禅的、あるいは超禅的に融通無碍である』というものなんだ。だから、『音楽とその作品はとざされた体系の世界であるよりは、多数の体系の、あるいは超体系的世界である』ということになる。クザーヌスの思想は、その音楽的論理と音楽的精神についての考え方の基礎となる部分を確立したものだということなんだね。

さかわの:
野村良雄先生の音楽美学論にも繋がるような基礎を確立したということですか。その話からは、クザーヌスの思想に大変期待してしまいますね。

ちょっと丁寧にクザーヌスの思想をみていきたいです。

KIN:
うん。
まずは、クザーヌスの思想の核となる考え方を大掴みに見てみよう。

クザーヌスの思索の方法の基本的な特徴として、数学的な思考の重視があげられる。この点では、クザーヌスもピタゴラス派以降の数学重視の姿勢を継承しているよ。
クザーヌスは主著「学識ある無知について」の中で、「第一級の哲学者」としてピタゴラスの名を挙げている。そして、プラトン学派や、アウグスティヌス、ボエティウスらもピタゴラスに随って数学を重視したことを指摘する。ピタゴラス派やプラトンに対する批判者、アリストテレスさえ数学を重んじているという。
これは偶然だけど、合唱対話篇「ピタゴラス音律ってなんだろう」「天体の音楽ってなんだろう」シリーズを通じて取り上げた人の名前を、クザーヌスも挙げているね。
筆頭はピタゴラスであり、クザーヌスはピタゴラス派の思想を非常に重視していたことは間違いないよ。


無限なものに対する比は存在しないこと

さかわの:
なるほど。
クザーヌスの場合、数学的な思考はどのように表現されるのですか。

KIN:
彼には、この世の現実世界は全て比によって成り立っているという基本的な認識がある。従って、現実世界における探求とは、数によって比の関係を明らかにし、理解することだと考えていた。

さかわの:
その点、ピタゴラス派との違いという観点でみるとどうなのでしょうか。

KIN:
クザーヌスの新しいところは、無限というものを重視し、徹底的に究明していく点なんだ。

さかわの:
クザーヌスにとって無限は、どういうものとして捉えられていたのですか。

KIN:
それは、有限と対照してみると分かりやすくなる。

有限な事物同士の関係は比によって現し、理解することができるのに対し、無限と有限なものの関係は決して比では表すことができない。比で表せないものは決して理解に到達することができない。
そして、神は無限である。よって、神とその他のものの関係を比によって現すことは、不可能であるから、神を比によって理解することはできない。

これがクザーヌスによる無限と神についての考え方だね。

さかわの:
クザーヌスは、現実世界の理解にとって比は重要であることを見抜き、しかも無限者と有限者との間には比の関係が成立しないことも喝破したという訳ですね。

ピタゴラス派との考え方の違いは、これ以外にもあるのでしょうか。


推測する―ぼんやりとした映像からの描出−

KIN:
数というものに対する認識が決定的に違う点を挙げなければならないね。

ピタゴラス派は、万物の根源は数であるとの認識をもって、数比によって世界の調和(比のあり方)を探究できると考えていた。
アウグスティヌスも、類比の論理、数比の論理というものに対する信頼度は高かった。
しかし、クザーヌスの考え、特に後期の著作を読むと、数学への信頼はそういうものではないことが分かる。

さかわの:
どういうことでしょう。

KIN:
クザーヌスいわく、数学的なものどもは、我々の理性が生み出した概念に過ぎない。もしこれがなければ、我々の理性が仕事を前に進められないというだけである。
そして、神の仕事を厳密には認識することはできない。我々ができるのは数学的な認識を通して神の仕事を推測し、「ぼんやりとした映像」から描き出すことのみである、という。

さかわの:
ピタゴラス派によれば、宇宙の法則をはじめ様々な法則は、すべて数学という我々人間が使用している言語なり方法でしっかり把握できるという前提を持っていたと思います。これはこれで、とても明快でした。
他方、クザーヌスの考えでは数学や数比を駆使しても、神の仕事については精々ぼんやり推測できるに止まるということなのですね。しかし、このクザーヌスの立場を前提にすると、一体数学とは何なのかという疑問が湧いてきます。

KIN:
至極ごもっともな疑問だと思うよ。
クザーヌスいわく、神の知恵は、あらゆる被造物に対し、それらに固有の尺度と重さと数を設定したのだという。神の精神は、万物を最も知恵ある仕方で設定した。なぜなら、いかなるものにも、何故このような形で存在しており、他の仕方で存在していないのか、についての根拠が欠けることのないようにするためである。そうしなければ万物が混乱してしまうからである。
と説明しているよ。これはこれで、成る程という感じもする。

さかわの:
たしかに、思い返してみますと、ピタゴラス音律では、3:2の比を使って音律をつくろうとしたところ、オクターブに微妙なズレが生じたりする問題がありました。
人間が用いている数比の論理や方法が、必ずしも神の用いているそれと同一であるとは限らない、ということはいえますよね。


クザーヌスの宇宙論

さかわの:
クザーヌスの数学観はよくわかりました。
このようなクザーヌスの考え方からすると、宇宙に対してはどのような見方になるのか、いよいよ興味があります。

KIN:
では、次に宇宙論を見てみよう。

クザーヌスの宇宙論を理解するためには、「反対対立の合致」という彼の概念を押さえる必要があるよ。これは、人間の認識能力では一見矛盾したり対立したりする事柄でも、無限な神においては、一致も合致もするという考えなんだ。
一見難解なようだけど、具体例で考えればそんなには難しくないよ。

例えば、無限大の円を考えてみる。
通常、円周と直線は一致しない。しかし、円周をどんどん大きくして無限の大きさに近付けていくと、円周の曲率が直線に近づいていく。そして、無限の円となると、もはや円周は直線と一致することになる。
つまり、無限の円においては円周と直線は一致する。

もう一つの例は、コマ回しの比喩だよ。
点aの上で回転するコマの上面の円としてbcという円を書いてみる。そして、その外側に固定されている円deも書く。このとき、可動的な円bcは、速く回転すればするほど、より少なく運動しているように見える。

図:回転コマ
回転コマ
そして、この速度が無限になると、どうなるか。

これは、点b、cとも、『同じ時点』において点dと一致しなくてはならない。なぜなら、無限の速度においては、時間的にb点がc点より先にd点の箇所にあったなどということはなくなるからね。そうでなければ、この運動は、最大にして無限の運動とはいえないことになる。しかし、「いかなる時間にも点b、cは固定点dから遠ざからない」ということは、それは静止しているということに他ならない。
結論として、無限の速度において、運動と静止とは一致するということになる。

さかわの:
無限においては、対立することも一致するという良い例ですね。
この反対対立の合致が、宇宙論とどのようにかかわるのですか。

KIN:
クザーヌスによる宇宙論の結論を先に述べると
「地球は不動であるはずがない」
「世界の中心は地球の外にもなければ内にもない。地球もその他の天圏も中心をもたない」というものなんだ。

さかわの:
一つ目の結論は、地動説ですね。クザーヌスは、コペルニクス(1473〜1543)よりも先に地動説を唱えていたのですね。
二つ目の結論は、アインシュタイン(1879〜1955)が唱えた宇宙原理(宇宙にはどこにも特別な場所はなく、どの方向にも特別な方向はない)に、発想として近いものがあるのではないでしょうか。

クザーヌスは、先ほどの「反対対立の合致」から、それらの結論を導くのですね。

KIN:
うん。論理は、極めてシンプルです。

一点目の結論の理由は、次のようなものだよ。
「反対対立の合致」からは、最小者は最大者と合致しなければならない。ところで、運動においての最小者とは、固定した中心ということになるが、このようなものは世界に存在しない。
従って、「地球は不動であるはずがない」ということになる。

二点目の結論についての理由も単純明快。
そもそも中心とは周より等距離にある点である。ところで、それ以上に完全なものがありえないほどに完全な球または円などありえない。ゆえに、より以上の完全さと厳密さを許さないような中心などありえないことは明らかである。
従って、「世界の中心は地球の外にもなければ内にもない。地球もその他の天圏も中心をもたない」。

さかわの:
クザーヌスは、思惟だけで地動説と宇宙空間の同質性の結論を導いたのですね・・。

KIN:
そういうことになるね。


クザーヌスの音楽論

さかわの:
ピタゴラス派、アリストテレス・アリストクセノス等の例を振り返るまでもなく、ある思想家の宇宙論・天体論は、音楽論にも密接にかかわってくるということがありました。

クザーヌスによる音楽論というものはあるのですか。

KIN:
うん。
アウグスティヌスのように一冊の本という形でまとめて著した訳ではないけど、「学識ある無知について」の中に音楽について述べている箇所があるよ。

クザーヌスは、「最も厳密で最も大きい調和」ということを述べる。そしてこの調和を、「全てのものの理法」とする。 この調和は、あたかも無限の光が全ての光を引き寄せるように、われわれの心の理法を引き寄せる。これによってわれわれの心は、感性的なものから解き放たれ、知性の耳に完全に合致した調和を恍惚として聴くことになるという。

さかわの:
その調和を聴いたらどうなるのですか。

KIN:
クザーヌスいわく、極めて魅力的な観想に遭遇するという。
第一に、不滅の理法を本性に宿しているわれわれの知性的および理性的精神はこの理法によって、音楽のうちで調和と不調和を許容する自分自身の「像」に自然と到達する。
第二に、祝福された人々が現世から解き放たれて赴くはずの永遠の浄福を観ることになる。

さかわの:
それはすごいですね。
でも、それを実際に聴くことはできるのでしょうか。
今までのクザーヌスの思考方法からすると、答えは聞くまでもないような気もしますが・・(笑)

KIN:
それについても、クザーヌス一流の考えが示される。

彼は、音楽において、笛や人声、その他の楽器の様々な音の間の調和的な比例関係に、それ以上の厳密さがありえないほどの厳密さを見出すことは不可能であるという。音声の場合でも、楽器の場合でも同一の正確な調和関係というのは実現不可能であって、全ての場所、時、組み合わせ等々にとって必ず差異が生ずる。
結局、「厳密な比例関係」というものは、抽象的に概念としてあるだけである。感性的な事物には、欠陥のないもっとも甘美な調和や和声というものは決して見出すことはできない、とするんだ。

さかわの:
つまり、感性的な存在でもあるわれわれ人間には、「最も厳密で最も大きい調和」は奏でることはもちろん、聴くことも出来ないということになりますか。

KIN:
うん。
最も厳密で最も大きい調和とは、最も厳密な比例ということになる。しかし、肉体に束縛された生身の人間にはそれを奏でること、聴きとることは不可能だということになるね。


推測によって聴かれる天体の音楽

さかわの:
ここまで、クザーヌスの思想を、数学論、宇宙論そして音楽論に渡って丁寧に見てきました。
非常に特徴的で独創的な思想家であることが良く解りました。

基本的に、人間の認識能力に対して謙虚な姿勢を持っているのだなという印象でした。
宇宙についても、根拠なく自分のいるところが中心だという風には決して考えないのですね。音楽論についても、自分の耳に聞こえている調和が「全てのものの理法」だなどとは考えないですし。

KIN:
同感です。

さかわの:
音楽論では、人間の認識能力の限界を厳しく踏まえつつ、他方で「極めて魅力的な観想」をもたらすような、「最も厳密で最も大きい調和」というものがある、としていました。

クザーヌスの数学論からの類推で考えてみますと、我々が合唱という音楽でできることは、薄ぼんやりと「最も厳密で最も大きい調和」のかすかな残響を空耳のように聴いたり、あるいは薄ぼんやりとしたその調和のイメージに従って、身体や楽器を用いて演奏することなのかな、と思います。 そのような認識の限界についての自覚を持ちながらも、「極めて魅力的な観想」の高みを仰ぎつつ、そこを目指してやっていきたいものです。


天体の音楽のその後

さかわの:
天体の音楽は、その後どのように考えられていくのでしょう。

KIN:
先ほど、さかわの君も指摘していたけど、コペルニクスによる観測に基づいた地動説の発表があり、大きなトピックとなるね。
その後に、天体の音楽に近い発想を継承した有名な学者としては、ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)がいるよ。

さかわの:
ケプラーの名前は、太陽系の惑星の軌道についての3法則の発見者として知られています。ドイツの哲学者ヘーゲル(1770〜1831)は、惑星の運動を本質的に解明したのは物理学的に解析したニュートンよりもむしろケプラーであると評したそうですね。

KIN:
そのようだね。
その後、17世紀には、「第7回天体の音楽ってなんだろう(2)」でも触れたアタナシウス・キルヒャーが出てくる。
そして、音楽家でもあったフレデリック・ウィリアム・ハーシェル(1738〜1822)による天王星の発見がある。
グスターヴ・ホルスト(1874〜1934)が『惑星』を作曲したことも見逃せないね。ホルストが組曲『惑星』を作曲したモチーフは、占星術の研究からであったといわれているよ。

さかわの:
天体の音楽は、ずっと脈々とその発想が受け継がれ続け、時にはケプラーの法則の発見や、天王星の発見という科学上の偉大な発見にも繋がりを持つことがあったのですね。

今後、一体どのような天体の音楽が奏でられていくのか、天体の音楽を意識した合唱というものも何だか考えてみたくなりました。

今回で、「天体の音楽」シリーズは完結ですね。

KIN:
終わりに、ドイツの哲学者カント(1724〜1804)の言葉を紹介して締めくくろう。西田幾多郎は著書『善の研究』の中でカントの言葉を次のように訳している。

「我々が常に無限の歎美と畏敬とをもって見るものが二つある。一は上にかかる星斗爛漫なる天と、一は心内における道徳的法則である。」

天に輝く星を見て、人類はいつもその精神の飛翔のきっかけを得てきたともいえるんじゃないかな。新しい天体の音楽を男声合唱で表現できることも、いつかあるかもしれないね。

さかわの:
そう在りたいものですね。

【参考文献】

  • キティ・ファーガソン(著),柴田裕之(訳),『ピュタゴラスの音楽』,白水社,2011年
  • 桜井進・坂口博樹(著),『音楽と数学の交差』,大月書店,2011年
  • 西原稔,安生健(著),『アインシュタインとヴァイオリン 音楽の中の科学』,ヤマハミュージックメディア,2014年
  • ニコラウス・クザーヌス(著),山田桂三 (訳),『学識ある無知について』,平凡社,1994年
  • ニコラウス・クザーヌス(著),大出哲 , 八巻和彦 (共訳),『可能現実存在』,国文社,1987年
  • ニコラウス・クザーヌス(著),八巻和彦(訳),『神を観ることについて他二篇』,岩波書店,2001年
  • 上智大学中世思想研究所(編訳/監修),『中世思想原典集成17』,平凡社,1992年
  • 八巻和彦(著),『クザーヌスの世界像』,創文社,2001年
  • ハインリッヒ・ロムバッハ(著),酒井潔(訳)『実体・体系・構造』.ミネルヴァ書房,1999年
  • 野村良雄(著),『改訂 音楽美学』, 音楽之友社,1971年
  • 神前尚生(著),『音楽美学と一般思想史』,近代文藝社,2011年

by KIN 2014/07/26 




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